他人を攻撃することほど楽しいことはない! いじめは日本人最大の娯楽
なぜ、いじめはなくならないか。理由は単純。いじめほど、楽しいことはないからです。事実、日本国民は一人残らず、いじめエンタメを享受してるんですから。
文/編集部 (実話BUNKAタブー10月号掲載)
イジメ、ダメなんてのは偽善
終わってみれば、最も注目を集めたのは小山田圭吾だったというオチの東京オリンピック。
実際のところ、日本人選手へのエールより、小山田へのバッシングの方がよほど熱狂したのでは? いい加減、はっきり言ってしまえばいい。「あ〜、小山田をいじめてスッキリした。楽しかった!」と。
小山田および小林賢太郎の件を機に、「キャンセルカルチャー」というアメリカ発の新語を耳にする機会が増えた。著名人や組織の言動を批判的に取り上げ、地位剥奪や不買などの「排除・追放」を働きかける風潮のことだ。
2020年、政治学者・三浦瑠麗の徴兵制必要論をきっかけに、彼女がCM出演している「Amazonプライム」の解約運動がSNS上で広まったのも記憶に新しい。アメリカではより先鋭的で、昨年の黒人人権運動では、ジョージ・ワシントン初代大統領ら一般に偉人とされる人々も、かつて黒人差別を行っていたと断罪され、左派によって彼らの銅像が倒されるといった事件まで起きた。
要は、意識高い系の人たちが同じ価値観を持たない者に対し、「人としてあるまじき!」「許せない!!」と追放運動を仕掛ける形だ。
小山田圭吾が通い、かのいじめの舞台ともなった和光学園は、「自由」「民主」「共生」「平和」などを理念に掲げる、進歩的な学校として知られている。同校は、そういった理念の実践校でもあった。
日本の学校にいじめが多い背景として、「欧米では当たり前な『インクルージョン・クラスルーム』がない」という点を挙げているのは、左翼系メディアの『ハフポスト日本版』だ。インクルージョン・クラスルームとは、健常児と障害児が一緒に学ぶクラスのことで、米国認定音楽療法士・佐藤由美子氏いわく「排除される人をつくらない社会」を築くために有用なのだとか。
実は、和光学園こそ、「共同教育」を標榜し健常児とハンディキャップを持つ児童をともに学ばせているインクルージョン実践校なのだ。だが実態は、小山田が行っていたような障害者へのいじめは、和光学園で常態化していることが卒業生の告発で明らかになっている。藤井大地氏の「小山田圭吾と『私が経験した過去の和光学園』のインクルーシブ教育2」によると、「僕の学年にも数人の障碍者がいた。その中には殴る蹴るの暴行を含むいじめの標的になった者もいる。また授業についていけなくなったり、介助が特定の生徒に任せっきりになっていた者もいる」という。
一般社会以上に「反いじめ」を掲げる和光学園ですら、皮肉な凄惨ないじめが横行する…。それは、なぜか?
いじめという行為が、日本人にとって、これ以上ないほど楽しい娯楽だからである。
事実「いじめは良くない」という言葉すら、いじめるための大義名分にされ、小山田圭吾の息子にも大量の誹謗中傷メッセージが送られてきたそうだ。「イジメ、ダメ、ゼッタイ」なんてのは、単に自身の醜さをごまかすための、偽善の言葉にしかすぎないのだ。
大人の社会もいじめが横行
いじめたいという欲望は、日本民族の本能に結びついているのかもしれない。何十年も前から「いじめ撲滅」が叫ばれているのに、いじめは一向に減っていない。それどころか、小・中・高校におけるいじめの認知件数は、年を追うごとに増え続けている。
文科省の調べによると、2019年度のいじめ認知件数は過去最多の61万件で、いじめを認知した学校は全体数の82・6%。
今年3月、旭川市の女子中学生が自殺した件でいじめが認知されていなかったことを考えても、残り2割弱の学校は「いじめがない」のではなく、「認知されていないだけ」と見るのが妥当。いじめは、日本のすべての学校に存在する。
こうした状況を背景に、小学校では18年度から、中学校でも19年度から「道徳」が教科化された。しかし、「道徳を教科化してもいじめは減らない」という専門家の声は少なくない。
なにせ、「いじめはよくない」と言っている大人たちが、子供以上にいじめを「楽しんでいる」のだ。最も象徴的だったのが、19年10月に神戸の小学校で発覚した教員による同僚教員へのいじめだ。
辛いものが苦手な男性教員を数人で羽交い締めにし、笑いながら激辛カレーを口に押し込むなど、極めて暴力的ないじめを嬉々として行っている教師が、その一方で子供に道徳を教え諭す。笑えない不条理コントだ。
会社内では、上司が部下にパワハラ三昧。部下は部下で、派遣社員に嫌味を言って鬱憤を晴らす。派遣社員は、外国人労働者や技能実習生への露骨な嫌がらせで自尊心を保つ。いじめは下へ下へと流れていく。
家庭に帰っても、大人たちはいじめをやめない。モラハラ夫は妻を奴隷のように扱い、毒妻は子供たちを味方につけて夫を虐げる。
「お父さんは臭いわね〜。ポンコツね〜。死ねばいいのにね!」
憂さを晴らしたければ、人をいじめるのが手っ取り早い。人を見下し攻撃を加えれば、自分よりも下の存在がいると安心できる。いじめは便利、いじめは楽しい。大人の姿から学んだ子供たちの間でいじめが増え続けるのは、極々自然のなりゆきだ。
健全な心身を育成し、子供たちに夢を与えるとされる「スポーツ」の世界も大差はない。
元韓国代表で、Jリーグでもジェフユナイテッド市原(当時)など3チームで活躍したチェ・ヨンスも、「パスがこなくて練習にならなかった」と日本時代に受けたいじめを明かしている。
日本人選手のそうした態度を見ているからだろう、「ユースの子も、自分には挨拶もしなかった」のだとか。それを見た古参選手は「笑って楽しんでいた」とチェ・ヨンスは当時を振り返っている。日本人は、子供にいじめの楽しみ方を教えるのが本当にうまい。
日本のテレビはいじめだらけ
日本人にとって、「キャンセルカルチャー」という言葉は、最近まで耳馴染みのないものだった。だがその行為自体は、古くからこの日本にも根付いている。「村八分」だ。
ある地域の大多数の住民が結託し、一部の人間との交流を断つ。村八分が原初的ないじめであることに異論はないだろう。
異物を集団で弾き出し、共同体の秩序を維持するという点でも、キャンセルカルチャーと村八分は酷似している。そして、村八分もいじめ同様に存在し続けている。もう、認めざるを得ないはずだ。日本人は、昔も今もいじめが大好きだと。
脳科学者で『ヒトは「いじめ」をやめられない』の著者、中野信子は人間がいじめをやめられない理由を、脳科学の見地から解説している。
いじめがやめられないのは、その行為に、理性を停止させるほどの快感が伴うから。いじめに快感が伴うのは、人間という種の存続に欠かせない「集団」の維持に必要だから。「いじめがなくならないのは、いじめという行為が、人間が進化の過程で身につけた『機能』だからではないか」と、中野氏は考察している。
人間の遺伝子に「いじめは楽しい」と書き込まれているのなら、いくら道徳教育で「相手の気持を考えよう」「いじめはよくないことだ」と教え諭しても、十分な効果が得られないのは当然だ。それを認識せず、きれいごとばかりを並べてもいじめは減るはずもない。
実際、村八分やいじめなどの制裁行動を発動すると、脳内麻薬の「ドーパミン」が大量に分泌され、喜びを感じることが分かっている。
また、誰かと長時間同じ空間にいると、「仲間意識」を作る「オキシトシン」という脳内ホルモンを分泌。オキシトシンが増えすぎると、仲間や集団を守ろうという意識から、異物やルールから外れる者を排除しようとする欲動が高まることも分かっている。集団を守るため、脳が「いじめよ」と命令するのだ。
いじめが脳内物質の影響で発動しているのだとしたら、その仕組みはまさに麻薬と同じだ。いじめがなくならないのは、麻薬的に楽しくて気持ちいいから。シンプルにそう考えれば、いろいろと合点がいく。
専門性を持たない芸人やタレントが個人的な感情で人様を断罪し、ネット上での大々的なバッシングへの着火剤として機能する「ワイドショー」。海外では、そもそも「ワイドショー」なるもの自体が存在しない。専門家や記者が教養や知識を活かして討論する番組を、タレントが個人の好き嫌いで誰かをバッシングする番組へ変化させたのは、日本人のいじめ好きの性根のなす業と言わざるを得ない。
リアリティー番組『テラスハウス』に出演した木村花が、SNSでの誹謗中傷に耐えきれず自殺したのも、山里亮太をはじめとするスタジオメンバーが木村の言動を批判的に評し、視聴者の攻撃心を煽ったのがそもそもの発端。「はい、次はこの人を叩きましょう!」と扇動するワイドショーと同じメカニズムだ。
影響力のある者の発言でターゲットが定まり、周囲もそれを笑いながら観察しているのは、子供たちが学校でしているいじめともまったく変わらない。日本独自のワイドショーがなくならないこと、テラハのような番組が高視聴率になることなども、日本国中がいじめを「娯楽」として楽しんでいるという事実の証左だ。
今さら言うまでもないが、日本の人気バラエティー番組のほとんどはいじめによって成立し、それこそが楽しまれている。『めちゃイケ』の「しりとり侍」が「いじめを助長する」とBPOから指摘されたのはよく知られているが、あれも単に分かりやすい例としてピックアップされただけ。「笑い」が生まれる番組はほぼすべて、画面のなかで繰り広げられるいじめを視聴者が眺めて楽しむ構図になっている。
絶対的強者に追いかけられて鞭で打たれる者を、激辛料理を涙しつつ口の中に詰め込む者を、視聴者は大笑いしながら眺める。いじめは実行者だけでなく、傍観者にも快感をもたらすのだ。
「笑えるものはイジり、笑えないのがいじめ」
そう線引きした松本人志。彼の持論によれば、子供たちがひとりの障害者を取り囲んで殴る蹴るウンコを喰わせるのも、爆笑できるから「イジり」の範囲で問題なし! (ちなみにダウンタウン・浜田雅功は、長男ハマ・オカモトを、先に紹介した“反いじめ”学校・和光に入学させた。なんたる皮肉!)
爆笑問題・太田光にいたっては、さらに清々しい。
「笑いはいじめそのものだと思ってる。『テレビ番組はいじめと違います』っていう論理は、『うちの学校にはいじめはありません』って言ってる奴と同じ」
お笑い界の両巨頭がおっしゃるのだから、お笑いもテレビもいじめであるのは間違いない。そして、我々日本人はそれをエンタメとして日夜楽しんでいる。
いじめは人間という種の生存率を高めるために機能しているというのは、先の脳科学者の考察だが、そもそも「セックス」という最もベーシックな種の保存行動が、征服者と非征服者といういじめによって成り立ち、それこそがほかでは得られない快感に繋がっている。
嫌よ嫌よも好きのうち、か。昔の人はうまいことを言った。ダメよダメよもいじめの快楽のうち、ということだ。